野口英世 この母ありて この息子あり | 北村はじめの『ちょっと立ち読み』




母の日に因む一人の母の話をしたい。極貧の農家に生まれて、幼いうちに両親に別れ、信心深い祖母の手一つで育てられた野口シカ。7歳で他家に雇われ、終日子守や野良仕事に追われ、辛苦を重ねつつも逆境を耐え抜き、息子をみごと学問で立たせた母の物語り。


1、福島生まれの野口英世の銅像が大阪に


大阪府の箕面(みのお)公園に建つ野口英世博士の銅像。会津磐梯山のふもとの貧農に生まれ、大阪とは直接関係のない野口博士の銅像が、何故箕面公園にあるのか。


大正
4年(1915年)の9月、野口博士は15年ぶりにアメリカから一時帰国した。そのとき、博士は長い間寂しい思いをさせた老母に親孝行したいと、母シカを一緒に連れて行った。東京、名古屋、伊勢を回って大阪へ。帰国した野口英世を、大阪医師会は歓迎し、箕面滝道の料亭〝琴の家〟で催された宴で、隣に座る老母シカに何かと心を砕いて孝養した野口英世。

 

この宴席で一部始終をみていた女将(おかみ)の南川光枝が、博士ほど母を大切にする人をみたことがないと深い感銘を受けた。このことをいつまでも語り継いでいきたいと、銅像の建立を決意した。しかし、自費では賄いきれず、近くの小学校の子どもたちにも寄付を呼びかけ、公園に立派な銅像を建てた。

 

 

 

▲野口英世像(箕面市:撮影 羽田良樹)


 

2、野口博士に親孝行をさせた母親とは

 


母の名前をシカという。嘉永(かえい)6年(1853年)に生まれた。明治維新の15年前だ。家は農業だったが、シカの両親は夫婦仲が悪く、相次いで家出してしまい、シカは祖母ミツの手で育てられたこともあって、祖母をとても大切に思っていた。あるとき、シカは近所の家の子守りをしたが、そのお礼にもらったお菓子を食べないで家に持って帰り、そのまま祖母に渡したといわれる。

 

だが、シカが10歳の時、祖母はなくなり一人ぼっちになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▲野口 シカ

 

 


会津人が今も忘れることのない「戊辰(ぼしん)戦争」。会津戊辰戦争(慶応
4/明治元年(1868年))は、現在の福島県が主戦場となった。会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いである。会津藩と奥羽越列藩同盟は大敗した。

新政府軍は会津戦争の戦死者・犠牲者の一切に対して埋葬を禁止したため、長期間に渡って放置された老若男女の死体は風雨に晒され、鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況だったと言われている。シカの夫となる佐代助も、この戦争に足軽として加わっていた。

西軍(官軍)が会津に攻め入った時、通り道にある家々は、ことごとく西軍によって焼き払われた。この時、わずか14歳だったシカは、自分の身を挺し、西軍の隊長に「自分が住んでいる三城潟には侍はいないので焼かないで欲しい」と直訴し、三城潟は焼き討ちの難を逃れたという。

 

3、「野口清作」誕生 …しかし…


明治
5年(1872年)、シカが19歳の時、佐代助(さよすけ)という男性と結婚した。佐代助は郵便物運搬の仕事をしていたが、酒と博打が好きであまり働かなかった。そのうち女の子(イヌ)が生まれ、さらに2年後の明治9年(1876年)119日、三ツ和村三城(現猪苗代町)で、シカは男の子を出産した。「清作(せいさく)」と名づけられたこの男の子が、後の「野口英世」となる人だ。夫の佐代助はあまり家に帰らなかったが、子供2人を授かり、シカは貧しいながらも幸せだったという。

 

ところが、18784月末、1歳半の時、とんでもないことが起きた。母親のシカが畑仕事に出た後、ハイハイをしていた清作が囲炉裏に転げ落ち、左手が焼け爛れてしまって、泣き叫ぶ清作に、シカはどうすることもできず、抱きしめてやるだけだった。それでも昼夜分かたずの看病で、清作のやけどは 治ったが、医者にも見てもらえないまま、まるで松の木のこぶのように左手は指がくっつき、鍬も持てない手になってしまった。

 

シカは百姓になれない清作を学問で身を立たせようと、それまでにも増して必死に働いた。昼は畑仕事をし、夜子供たちを寝かしつけた後は、近くの川でエビなどを採り、翌朝それを売りに歩いた。この時、シカは近所の人々が収穫したものや工芸品など重い荷物を預かって背負い、会津若松市内まで届けると、その帰りには人々に頼まれた買い物をし、それをまた三ツ和村三城まで歩いて運んで来て収入を得ていた。その距離、片道30キロメートル! しかも重い荷を背負って・・・。

 

シカにすれば、清作のやけどは自分の不注意のせいだ、清作の手では畑仕事は無理だ、ちゃんと学校に行かせて自分の道を見つけさせねば申し訳ない、しかし学校に行かせるにはお金がかかる・・との思いが強かった。当時は、小学校と言えども全員が行けるわけではなかった。まして福島県の片田舎で小学校に行くのは裕福な家庭の子で、貧しい家庭の子供は清作一人だった、といわれている。

 

そのような状況を幼い清作はよく理解していた。一生懸命働く母親の姿を見るにつけ、清作に、感謝の気持ちが知らず知らずのうちに生まれていた。

  

4、やけど→猛勉強→出世→渡米

 

しかし学校では、清作は「てんぼう、てんぼう」(註)と呼ばれ、動かない左手を理由にイジメに遭った。じっと我慢して勉強をしていたが、とうとう学校に行くのが嫌になり、ぶらぶらしている内に母親のシカに見つかってしまった。清作はこっぴどく怒られると思っていたが、シカはなぜ清作が学校に行きたがらないのかよくわかっていたので「許しておくれ。やけどをさせてしまったのは母ちゃんのせいだ。辛いだろうがここで勉強をやめてしまったらせっかくの苦労も何にもならない。お前の勉強をする姿を見ることだけが楽しみなんだ。我慢しておくれ」と涙ながらに詫びるのだった。

 

幼い清作の心は激しく動かされ、このことがあってから清作は単に学校に行くだけではなく、猛勉強を始めた。野口英世は、後年、「今、私の人生を振り返ると、このやけどが悪かったのか、それとも良かったのかは分かりません。しかし、このやけどがあり、その後の私があるのです」と言った。

(註)身体的ハンディを持つ人に対する蔑視語ですが、その時代を分かっていただくために、そのままを使用しました。

 

▲野口英世 生家 昭和4年頃



左手が不自由というハンディを背負いながら、猛勉強した清作は、11歳の時には、生長(代用教員)として教壇にたち、同級生の勉強を教えた。

  

清作の努力、母シカの献身的な愛情に加えて、猪苗代高等小学校訓導(現在の教頭にあたる)だった小林栄(さかえ)先生の私財を投げ打ってまでの援助を受けて、清作は何とか猪苗代高等小学校へ入学できた。15歳のとき、学校の先生や級友が集めてくれたお金で、現在の会津若松市内にある会陽(かいよう)医院で、左手の手術を左手の手術を受けることができた。医学の素晴らしさに感動した清作は、医学の道を志した。

 

高等小学校を首席で卒業した後、左手の手術をしてくれた会津若松の会陽医院、渡部鼎(かなえ)先生のもとに弟子入りし、住み込みで働きながら医者になるための勉強をすることになった。ここでも一時、同じ病院で働く仲間たちの嫌がらせを受け、たまりかねて家へ帰ろうとしたこともあった。しかし家にいた母親のシカは、清作の気持ちを理解しつつも、心を鬼にして、ここで負ければ何にもならぬ、と夕食も食べさせず追い返してしまった。

 

明治29年(1896年)、19歳の時、清作はさらに勉学の地を求め上京を決意。その思いを成し遂げるため、生家の床柱に「志しを得ざれば、再び此地(このち)を踏まず」の決意文を刻み、上京した。東京に出た清作は、会津若松の会陽医院から紹介を受けた高山歯学医院の血脇守之助先生の元で医学の勉学に熱心に励んだ。「ナポレオンは一日に3時間しか眠らなかった」という言葉を口ぐせとし、事実、その言葉通りに実行した。わずか20歳の若さで医師免許を取得した。

 


▲かつて野口英世が勤務した長浜検疫所(旧細菌研究室:横浜市金沢区)



その後、清作は、世界的に有名な北里柴三郎が所長をする伝染病研究所の助手となり、そこに訪れたサイモン・フレキスナー博士と知合ったり、横浜の海港検疫所に派遣中、ペスト菌を発見するなどの功績を上げる。

 

そして1904年、フレキスナー博士がニューヨークのロックフェラー研究所長になると、野口英世と改名した清作は、詳細は省くが、「一等助手」になった。この研究所で、英世は、蛇毒や梅毒、黄熱病の研究に没頭するが、その熱中ぶりは猛烈だった。

 

そうした努力が実り、梅毒のスピロヘータの研究で名を為して、ヨーロッパ各地から講演に招かれた。また、この時期には、研究所で知り合ったメアリー夫人と結婚もした。

 

5、シカの猛勉強

 

さて母親のシカの方は畑の仕事や荷物運びのほかに、産婆(助産婦)の仕事もするようになった。それまで産婆をしていたクマさんが年をとって後をついでほしいと言って来たので、産婆になった。そのうち新しい法律ができ、産婆の仕事をするには講習を受け、検定試験の合格が必要になった。

 


シカはもちろん小学校になど行っていない。小さい時、近くの寺の僧から文字を習ったことはあるが、その時からも相当の年月がたっていたので、シカは必死で勉強し、ついに検定試験にも合格し、念願の産婆の資格を得た。

産婆の資格を得てから、30年間で取り上げた子供の数は2000人余り。不思議なことにそれら全てが「安産」であったという。

 

6、シカの手紙

 

渡米後12年。世界の野口として認められ始めた息子は、学者としての地位も確立した。それだけに日本への帰国はままならなかった。田舎にいるシカは年もとり、英世に会いたくてしかたがなかった。そこで早く帰ってきてほしい、早く一緒に暮らしたいと、その一心で手紙を書いた。ほぼひらがなだけで書かれた手紙だが、子を思う母親の気持ちがあふれ出ている感動的な手紙で、現在福島県の野口英世記念館に展示されている。これがシカの現存する唯一の手紙である。

 

 

 

▲母シカの直筆の手紙

 

 

シカの手紙

 

おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(驚き)ました。

わたくしもよろこんでをりまする。

(中略)

べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。

いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。

おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。

 

はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。

わたしも。こころぼそくありまする。

ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。

 

かねを。もろた。こトたれにもきかせません。

それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。

 

はやくきてくたされ。

はやくきてくたされ

はやくきてくたされ。

はやくきてくたされ。

いしよの(一生の)たのみて。ありまする

 

にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。

ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。

きた(北)さむいてわおかみおります。

みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。

 

ついたち(一日)にわしをたち(塩絶ち)をしております。

ゐ少さま(栄晶様:修験道の僧侶の名)に。ついたちにわ

おかんてもろておりまする。

 

なにおわすれても。これわすれません。

 

さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。(神様に捧げるように頂く)

 

はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。

これのへんちち(返事を)まちてをりまする。

 

ねてもねむられません


シカは学問も無く、字が書けなかった。昔、寺の僧から習ったとはいえ、文房具が買えなかったため、お盆の上に、灰を薄く乗せ、その上をなぞって文字の練習したり、囲炉裏の中で字を書いて練習した。しかし、息子に一目会いたさに、囲炉裏の灰に指で字を書く練習をしながら、右の手紙が書かれた。(上の手紙には、「財団法人野口記念会」による最低限の注釈のみ付けた)

 

7、英世の帰国  シカとの再会 そして死・・

 

幼い清作に一生消えないやけどを負わせたことで、生涯自分を責めながら息子の無事だけを思って生きた母シカ・・・。長年会えない息子に向けて書かれた、たどたどしいその文字から、息子の身を案じる気持ちが痛いほど溢れる。

 

だが、研究に追われる英世はアメリカを離れられない。シカの心を察した英世の友人が、シカの写真をアメリカの英世に送った。写真を見た英世は大きな衝撃を受けた。背を丸めてやせ細り、小さくなっている母親シカの姿に。

 


▲母シカと野口英世



英世は日本への帰国を決心した。こうして話は、この特集の最初に戻って1915年(大正4年)の日本帰国となった。一時帰国をした野口英世は、万感の想いで待っていた母シカとの再会を果たした。

 

さてアメリカに帰った英世は、日本各地で撮った写真を母シカへ送った。シカはその写真を時折見ては楽しかった日々を思い出していたそうだ。

 

ところが大正7年(1918年)、シカは当時流行していたスペイン風邪で肺炎を患い、それがもとで多くの人に看取(みと)られながら六十六年の生涯を閉じた。

 

その年、1918年から黄熱病の研究のためにエクアドルやペルーなどを回り、黄熱病の薬を作り出したが、この薬ではアフリカの黄熱病は治らないという連絡を受けると、今度は1927年からアフリカのガーナに出張した。

 

しかし、滞在中に博士自身が黄熱病に罹り、翌年、ガーナで51歳の偉大な生涯を閉じた。ガーナでは、その献身的な治療活動から今でも医聖野口と尊敬を集めており、2002年にはクフォー大統領が福島を訪問するなど、博士の功績を偲んで猪苗代町の生家を訪れる人が後を絶たない。

 

まとめ

 

博士は、1915年の帰国時に母校の小学校で講演した。その時、「目的」「正直」「忍耐」と黒板に書いた。その意味は、この話を読めばよく分かっていただけると思う。研究先のアメリカでも、生涯、借家住まいで通した。私心の無い人格、すべては、母シカの姿勢から学んだと言える。

励まし名人だったシカへの報恩感謝、学問で立派に身を立ててその姿を母にみせるという英世の決意はみごと結実した。(完)

 

参考・引用資料 

●新藤兼人『ノグチの母 野口英世物語』小学館コンパクト

●野口英世記念会『まんが シカ物語』野口英世記念館

●馬場正男『野口英世』ポプラ社

北篤『正伝 野口英世』毎日新聞社

●むつ利之 新解釈の野口英世物語 講談社場漫画文庫

 
=敬称略=

文中の赤字人名は、英世の三大恩人を示す。

次回の北村はじめの「ちょっと立ち読み」は、朝河貫一を特集します。

 


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