歴史の聞き書き ベトちゃん・ドクちゃん看護秘話 | 北村はじめの『ちょっと立ち読み』

歴史の聞き書き ベトちゃん・ドクちゃん看護秘話 | 北村はじめの『ちょっと立ち読み』


私たちにとって1番馴染み深いベトナム人は、ベトちゃんドクちゃんではないだろうか。ベトナム戦争中に米軍が散布した枯れ葉剤の影響で結合双生児として生まれた2
人は、枯れ葉剤被害のシンボルとなり、日本からは様々な支援の手が差し伸べられた。

チュウ・マイン・コア(越独友好病院・教授兼集中治療室室長)さんは、こう話した。「こういう子がわが国で生まれたということは、ベトナム民族としての大きな精神的災害だったと思っています。それまでのベトナムの歴史の中に、こういう奇形児はいませんでした」

出生後の2年間のベトちゃん(故人)、ドクちゃんの看護秘話をご紹介する前に、簡単に2人のお歩みを振り返ってみたい。

 



ドクちゃん結婚式 2006年12月16日 ホーチミン市


出生地は枯葉剤散布地域 

1981年2月25日、ベトナム中部高原のコントゥム省サータイで生まれる。この地域はベトナム戦争下で枯れ葉剤がアメリカ軍により多量に散布された。2人は上半身2つが1つの下半身でY型に繋がった結合双生児として産まれた。染色体異常によって、胎内で癒合したまま成長したシャム双生児。肛門も性器も1つを共有した2重胎児だった。

 

両親は北ベトナムの出身だが、父親は戦争中に南部で戦い、終戦4年後の79年に、現地へ開拓移住している。北ベトナムにいた当時に生まれた長女には、外見上何の異常も認められない。次の子(生年・性別不詳)は死産だった。ベトとドクは、第3子と第4子だった。





出産時、生まれた子を見て、助産婦は失神し、母親も気を失ったという。生まれた子供は、周囲の人が現地の病院に運んで命を取り留めたと聞く。

 

両親は2人をコントゥム病院に預けたまま離婚状態。父親は逃げたと言われている。2人は生後2週間ちょっとで、陸路1000キロをハノイ市の越独友好病院まで車で移送された。

 

分離手術と分離後

1988年3月に母親と再会。その後ベトが意識不明の重体となる。2人とも死亡してしまう事態を避けるため、10月4日にホーチミン市立トゥーヅー病院で分離手術が行われた。この手術は日本赤十字社の支援で、日本から医師団が派遣され高度な医療技術が提供された。ベトナム人医師70人、日本人医師4人という医師団を編成して17時間に及ぶ大手術は成功し、ベトには左足が、ドクには右足がそれぞれ残された。ドクには日本から義足が提供された。

 

分離後ドクは障害児学校から中学校に入学。中学校は中退したが、職業学校でコンピュータプログラミングを学び、トゥーヅー病院の事務員となった。一方、ベトは重い脳障害を抱え寝たきりの状態が続いた。

 

2006年12月16日、ドクはボランティア活動で知り合った専門学校生のグエン・ティ・タイン・トゥエンさんと結婚。また、結婚後に兄ベトを引き取り夫婦で介護していた。

 

2007年10月6日1時(ベトナム標準時)、兄のベトが腎不全と肺炎の併発により26歳で死去。私にはその数時間後に連絡がきた。

 

2009年10月25日、ドクの妻トゥエンがトゥーヅー病院で男女の双子を出産。それぞれ富士山と桜にちなみ、男児はグエン・フー・シー、女児はグエン・アイン・ダオと命名された。



お嫁さんの友人と長年面倒をみてくれた病院の看護師さんと一緒に。



ディエン看護部長が話す看護の歴史


トー・ティ・ディエンさん。私が聞き書きをした時点では、越独友好病院の看護部長(総婦長)を務めていた。ディエンさんにとって、終戦の1975年は学校を卒業したばかりの女性医学士。若さはちきれる24歳だった。それから6年後に…考えもしなかった患者が運ばれてきた。




越独友好病院 ドー・キム・ソン教授(左) トー・ティ・ディエン看護部長(右)


①ベトちゃんドクちゃん到着


「ベトちゃん、ドクちゃんが運ばれてきたのは、私の当直の日でした。1981年3月のある日。夕方5時か6時頃、外が暗くなりかけていた頃でした。その日は、蒸し暑い日でした。ベトちゃんとドクちゃんを運んできたのは2人で、1人は男性で、もう1人は、私にベトちゃん、ドクちゃんを渡してくれた女性でした。その時、この赤ちゃんは生後18日目と言われました。蒸し暑かったせいもあり、長距離を運ばれてきて、道中、多分体も洗うこともなかったでしょうし、汚いし、臭いし、ボロボロの布にくるまれていました。小さくて、汚くて、薄汚れていました」

 



生まれて1年以内と思われる


「どこから情報が漏れたかわかりませんが、その2人が病院に到着したことが病院中に知られたようで、当時私は救急部に勤務していましたが、救急部につながる廊下は、大変な人混みでした。その人の中をかきわけながら進んだことを覚えています。私が、子供を受け取った時、コントゥムからやってきたと告げられて、びっくりしました。


ベトナム中南部にあるコントゥム省から車で移動したと聞いただけでも、大変なことでした。生後18日目で、命からがらの1000キロの道のりですよ!!付き添ってきた二人に何を食べさせましたか?と聞くと、『途中で砂糖の入っている水を飲ませました』と答えました。途中で食べ物もなくて、非常に空腹に耐えたのだと思います。声も出せないほど弱々しかったです。肌も青くて…当時私はまだ子供のいない身でしたけど、後に子供を持ってみると、どうやってそういう状況を乗り越えたのか、理解できませんでした。赤ちゃんを受け取った私は、部屋の中に入れて、人に見られないように部屋のドアを閉めました。入院手続きをして、救急部の医師が書類を受け取りました。夕方、私が一段落してその書類に目を通すと、こう書いてありました。『この子供たちの誕生時に、父親は来なかった。母親は出産後動揺して、逃げた。子供の名前は、グエン・ヴァン・バー(
Ba=数字の3を意味する)とグエン・ヴァン・ボン(Bon=数字の4を意味する)である』と。体をきれいにするために拭いてあげると、どなたからか服をもらったのを覚えています…」

「うちの病院では、当時トン・タット・トゥン教授(院長)がこの枯れ葉剤被害者について、研究をされていました。当時の私の上司である救急部医長トン・ドゥック・ラン教授に、どう看護すればいいのか聞きました。ラン先生は、『この子供を研究しなくてはならないので、皆で看護してください』と言いました。私は病院の食堂に行って、練乳をもらってきて、作って飲ませました。あまりに小さな赤ちゃんでしたので、おかゆなどもまだ無理でした」



②総力で看護


「当時ベトナムはまだまだ貧乏で、たくさん食べさせたかったけど、物が不足していました。その当時ベトちゃんとドクちゃんの状態は本当に情けなかったです。普通の人が見ると、パニックになるほど、痩せていて、汚れていて、面倒をみられていないという状態でした。結合性双生児という、私たちが生まれて初めて見る赤ちゃんでした。看護婦の中でも恐怖心を持った人も多かったです。幸いなことに同じ部署で産休の終わった女性(オアインさん)がいました。オアインさんは、まだ自分の赤ちゃんにミルクを飲ませていましたので、ベトちゃん、ドクちゃんにもミルクを飲ませ、自分の子供のように面倒をみました。トゥン(Ton That Tung)教授(院長)は、二人のために栄養士を手配してくれ、献立表を考えてもらいました。その通りに私たちはやりました。ベトちゃんドクちゃんに食べさせたのは、ミルクとお粥のダシと砂糖でした。私たち看護婦は、一人4ヵ月交代で二人の面倒を見ました。4ヵ月経って、ベトちゃんとドクちゃんは本当に健康状態がよくなって、少しふっくらしてきて、可愛くなってきました」

 

「そして、珍しい赤ちゃんとして有名になって、見に来る人も日毎に増えました。私たちは、ベトちゃんとドクちゃんが感染症にならないように守るのが本当に大変でした。二人が見世物にならないように、安定している患者の病室におきましたが、当時病院の中にネズミがたくさんいて、ベトちゃんとドクちゃんの足をかじって血が流れたこともありました。そういうことがあった後、私たちは、当病院に一年間入院していたグエンさんという方に面倒を見てもらいました。私たちが他の患者さんを診ている間、グエンさんがずっと二人の面倒をみてくれました。そして、『自分は、ベトちゃんとドクちゃんの父親だ』と呼んでいました。日が経つにつれて、二人はますますふくよかで、可愛い子供になっていきました。そして、どんどん話し方を教えました。非常に頭がよさそうでした。知能の問題はなかったと思います。教えたことは、ちゃんとすぐ覚えましたから」

 



トゥーヅー病院のベトちゃんドクちゃん(撮影年月日不詳)


Aと言えばB


「体はくっついているけれど、ベトちゃんとドクちゃんは性格が違います。片方は泣いているけど、片方が笑っていることもありました。咳でも、ふたり一緒に咳をするわけでもなくて、片方は咳をして、二日後残りの方が咳をするというようなこともありました。片方が熱を出すと、残りの方も熱を出すといったこともありました。体力がまず違いました。片方はよく遊んでいて、いつもとっても楽しそうでした。片方は、体力はあまりなく、からかわれると怒ったりしました。そして、アルファベットを教えました。私たちがAと言うと、二人はBと言いました。体力がある方が、いつも先に言い出しました。当時、私たちは独身でしたので、赤ちゃんの面倒の見方をあまり分かっていませんでしたが、生後18日目でうちの病院に来て、職員の手厚い看護でどんどん大きくなりました。時々風邪を引いたり、熱が出たり、お腹を壊したくらいで、あの子たちは大きな病気はしませんでした。いつも頭の中にたたき込んでおいたことは、赤ちゃんを感染症から守ることです。そのためには、毎日体を拭かなくてはなりませんでした。夏でも、ぬるい水で洗ったり、冬でもヒーターを近くに置いて、ぬるい水で洗いました」

 


ベトちゃんドクちゃん育ての親 トゥーヅー病院フオン先生(白衣の方)ベトちゃん15歳の誕生日に (1996年)


④改名


「私たちは、バーちゃんとボンちゃんの名前を、ヴィエットちゃんとドゥックちゃんに正式に変えました。それは、私の勤めていた越独病院の名前だからです。(そこからヴィエット(越〈ベトナム〉)、ドゥック(徳〈日本では独と書く〉と名づけられた。)その時のベトちゃんとドクちゃんの衣類は、本当に困りました。当時ベトナムの経済状況も厳しかったし、我々も苦しかったので、ちゃんとした服も着せられませんでした。子供が大きくなった人はお古を持ってきて2人にあげました。下は一緒で、上は別々だからズボンは1枚ですむけど、シャツは2枚ないといけません。小さい時は、1着を少し伸ばせば2人が入れましたが、どんどん大きくなると着られなくなり、2枚のシャツが必要になりました。ある時は、1枚のシャツの背中の部分を広くしました。同じ布もなくて、いろいろな布を合わせてシャツを作ったり、帽子を作ったりしました」

 

「2年間過ごしていると、外国から研究視察団もどんどんやってきて、感動しました。私たちも、募金箱を作っておカネを集めました。そのおカネで、ミルク、おかゆ、肉を買ったりして…トン・タット・トゥン教授も友人からおカネを集めて助けて下さいました。みな貧乏でしたので、石鹸や古着などの現物で支援する人も多かったです。金だらいをくれた人もいます。ベト・ドク専用の金だらいもなかったので、本当に大事にして、ベトちゃんドクちゃんを毎日行水させました」

 

「早く大きくなってほしいと強く願っていましたので、自分の子供のように大事にしました。2人とも2枚目でした。おとなしかったです。本当に小さすぎました。『お母さん(ママ)』が、最初に覚えた言葉です。私たちが部屋に入ると、「ガー・ディエン(ディエンお母さん)とか、名前にお母さんという言葉をつけて呼びました。そして、よくからかっていた看護婦もいたので、その看護婦がくると、「嫌い」と2人は言っていました」


 


越独友好病院



⑤枯れ葉剤被害者の呪縛を解く


「トン・タット・トゥン教授は、『研究のためにこの病院にぜひ残して、面倒をみなくてはならない』と仰いました。そして、私たちの医長であるラン先生は、毎日のことを細かく指示しました。

当時、私たちが一番困ったのは、好奇心の目で見る人があまりに多かったことです。その好奇心の強い人の対策まで指示しました」




在りし日のベトちゃん(1995年 トゥーヅー病院で)


「ベトちゃんドクちゃんが来た時は、私は婦長でした。看護婦として、医師の言う通りに看護しました。その当時、トゥン教授は研究に没頭され、私の仕事は、教授の指示で各地の奇形児を迎えに行くことでした。私は看護婦として、教授たちと一緒に同行し調査も行い、血液検査も行いました。ベトちゃんドクちゃんが入院した半年後、1981年の後半、トン・タット・トゥン教授が研究結果を発表したので、私たちは、戦場から帰ってきた旧軍人と奇形児の関係もどんどん分かるようになりました。被害者の家族が私たちに対して、感謝しました。それは、私たちが旧軍人の子供に何かできたのではなく、彼らの子供たちが枯れ葉剤被害者であることを証明したからです」




松葉杖のドクちゃん (1995年 トゥーヅー病院で)


「この病院は、多くの奇形児を受け入れた所です。戦場に行った多くの人が、神から罰を受けたと思っていたんです。ベトさんドクさんの両親も顔を出しませんでした。仮に来てても、自分がこの子の親だとは言えなかったと思います。枯れ葉剤の研究が進むと、精神的にも解放されたようです。多くの人が、罪を犯したように、心がさいなまれていました。そういう人こそ、国に貢献した人たちですのに…」


⑥別 れ


「小さい時は、抱いてあちこちの部屋に連れていきましたが、大きくなってからは重くなりましたので、1人で抱くことはできず、包帯交換用のカートに乗せて、あちこち連れて行きました。その時のことは忘れられません。2歳まで一緒に過ごせたこと、援助してくれた人が出てきたこと、うれしかったです。感謝したいです。1983年1月、この2人をホーチミンの病院に送って分離手術を受けることを決めました。全員が母親代わりになっていましたので、2歳になって別れる時は、ほんとうに悲しかったです。救急部で別れた時、皆泣きました。ベトちゃんとドクちゃんもものすごく泣きました。それまで毎日面倒をみてくれた看護婦全員の名前を呼びました。院長先生は、『看護婦たちは一緒に行かないで下さい』と言って、ベトちゃんとドクちゃんを1階に降ろしました。今度はホーチミン市まで飛行機の旅でした。私たちは2階のバルコニーに全員で集まって、見送りました。1階に下りたベトちゃんとドクちゃんの泣き声も聞こえました。その時も、私たちお母さんたちの名前を叫んでいました。分離手術を受けて、別々の体になったことは聞きましたが、その後、ベトちゃんとドクちゃんの情報は途絶えました。地球市民の1人として、私は平和を愛していますが、平和を愛する人が団結して、戦争を起こしている国の指導者に、私たちに必要なのは平和だけです、と訴えたいです。全国には、まだ多くの患者さんがいます。具体的な行動をしなくては意味がありません。行動を起こすことが大事です」

 



ドクちゃん15歳の誕生日 1996年撮影




ローソクに点火するベトちゃん(1995年)



あとがき

東洋の箴言に「いのちと申す物は 一切の財(たから)の中に第一の財(たから)なり」と。使命あるドクさんには、亡くなったベトさんの分までしっかり生きぬいて健康長寿であってもらいたいと願っています。

 

取材協力者:

①トー・ティ・ディエンさん(越独友好病院総婦長)

②チュー・マイン・コアさん(越独友好病院教授兼集中治療室室長)

取材コーディネーター:①レ・ドゥック・タインさん(ベトナム外務省新聞局プレスオフィサー)

※肩書きは、すべてインタビュー当時のもの。


ページトップへ